憲法記念の日に思う
私が高校の社会科教師をしていた20年ほど前に,「戦後50年決議」の高校生版をつくる授業実践を学会発表したことがあった。当時の高校生たちは,教科書の記述には興味を示さず,自分で図書館で資料を集め,記録を読んでレポートを書いてきた。そういう学習方法を指導したけれども,偏った思想教育やイデオロギーを前面に出しての授業などいっさいしていない。ゴシック体で書かれている大学入試頻出の“重要用語”を覚えることに努力する子たちには,その言葉の意味に関わる人々を連想するよう指導したことはあるけれど,私なりの歴史観を押し付けることなどしていない。けれど,私が授業で出会った子どもたちはみんな憲法9条をもつわが国の憲法に誇りをもてていた。
最近の高校生はそうは思わないのだろうか? 受験に便利な(歴史の面白さを学ぶには決して面白くない)教科書をひたすら覚える勉強に必死なのだろうか?
そして…大人たちは憲法改正議論にどう向き合うのだろうか。最近の首相の改憲論や安全保障に関する議論には危うさを感じるし,「グローバル時代の日本人」を育てると豪語しながら狭いナショナリズムに純化している保守派の強引な政治には居心地の悪さを感じてしまう。教科書検定制度や採択制度への圧力,(政権与党が決める)「道徳」を教科化し,集団的自衛権を解釈変更で認めようとしたり武器三原則を撤廃したりする最近の政権は,“暴走”という表現も過言ではないように思う。…こんなことを書くと様々なご批判も受けることは覚悟しているけれど,やはり国民みんなで冷静に考え合うべき重大な問題が,今まさに巨大与党に多数決の単純論理で強行採決されかねない。
古くから改憲論者たちは,現在の日本国憲法がGHQの“押し付け”憲法だから「自主的憲法」の制定を主張していた。安倍首相の祖父=自由党の岸信介氏が憲法調査会の会長だった時から,日本自身の手で自主憲法を制定することが悲願になっていた。しかし,当時の史実を調べた人ならわかることだけれど,外形的には“押しつけ”のように見えても,草案には日本人の意思が反映されていたし,GHQは日本人の憲法研究会案等にみる人権思想を参考としていた。そうした思想の基盤には明治維初期の自由民権運動や大正デモクラシーの思潮が通底していたとみる研究も多い。さらに,連合国は新憲法の制定に際して,日本国民自身の自由意志が尊重されるための国民投票案も日本側に提案していた事実もある。そもそも,成立の形態がどうだったかというメンツよりも,実質的な中身について国民が変えてほしいと願う条文がどれなのかを国民に明示すべきだろう。
ある意味,権力者の独断を防ぐためにある憲法に関して,平和ぼけしているかも知れない私たち一般市民がちゃんと考え議論する状況が生まれてきたと言えるかも知れない。有権者が本来の役割を果たし,市民として自分たちの暮らしを考えていくために,憲法改正に対する賛成・反対の議論に主体的参加が求められているように思う。
こんな時に,憲法9条を守る立場の護憲派が主催する集会や講演会に対して,役所が「政治的中立」を理由に会場の提供を拒否するという“事件”が多発していることには残念でならない。公務員が「事なかれ主義」に陥っているのか,政治家の顔色をみて仕事をするようになったのか…。ますます未来の有権者をちゃんと育てていかねばならないと再確認した「憲法記念日」となった。
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